ピーターパンの何でも日記 Part2

家族と友人に近況を伝える日記

お手玉の数え歌からの。。

私たち家族は父が建設業だったので、引っ越しがたえなかったのですが、

生まれてから幼稚園卒業までは、静岡に住んでいました。静岡時代は父は東名高速道路を作っていました。開通したのは1968年とあります。私は1961年生まれなので、ぴったりですね。

幼稚園卒業と同時に静岡のボロ屋を引っ越すことになり、車で近所の人とお別れしたときのシーンはときどき思い出します。すごく泣きました。悲しかったです。でも次の土地でもすぐ友達はできたので、影響はこのときはなかったです。

 

次の父の現場は大阪で、引っ越し先は枚方パーク近くのおうちでした。うる覚えですが枚方パークから二駅先ぐらいだったように記憶しています。ので、調べたら京阪電車御殿山駅あたりだったのではないでしょうか?

通ったのは、山田小学校というところで、集団登校で待っている間、女の子の間で流行っていたのがお手玉でした。私は器用だったのか?夢中になって母に小豆の入ったお手玉をつくってもらい、メキメキと上達しました。この経験からボール運動、小さな球を使った運動は大得意になったのです。

 

で、このお手玉は数え歌があり、これもまた適当な言葉で覚えていたのですが、色々調べてみた結果、ベースは手まり歌で、ちょこちょこいろんな数え歌とまざっているものと判明しました。その歌は

 

一列談判破裂してー

日露戦争始まった

三は佐倉の惣五郎

四は信濃善光寺

五つ出雲のおおやしろ

六つはむらむら鎮守様

七つ成田の不動さん

八つ八幡の八幡宮

九つ高野の高野山

東郷大将万々歳!

 

です。

このころは佐倉なんて地名知りませんでしたが、大人になって、成田の不動尊も、佐倉の惣五郎も知って結構わらっちゃいましたが、この歌を歌いながらお手玉を徐々レベルが上がる形で、どこまで続くか、お手玉を落としたら次の人に変わるという形でやってました。

このころの枚方超弩級田舎で、覚えていることの一つに、たくさんの蓮華の花をつんで、どこかのお姉さんにリースのような頭飾りの作り方を教えてもらったり、これもどなたかのおうちに遊びにいったときに、大きな門、玄関からのすごい上り框の高かったこと!お部屋にはあがりませんでしたが、どこかの地主さんか庄屋さんの家だったのでしょうね。あとは、小学校で粘土でお姫様をつくって二人ぐらいの男の子が家来になってくれたのも楽しい思い出でした!笑

 

ここには一年しかいなかったのですが、とても、のどかな田園地帯で、私には合っていたかもです。まだ家の近くの畑では、例の肥やしをまいていたのを覚えてます。それから、家の近くの近所に、竹藪があったのですが、母が

 

野良犬がいるみたいだから気をつけてね!

 

と言われ、さっそく竹藪にいって

 

ワンちゃん、ワンちゃん!

 

と呼んだら、しば犬系の野良犬が猛烈な勢いで走ってきて、しっぽふりふりで、すごくかわいくって、三日目ぐらいには

 

おまえは呼んだらすぐくるから、名前はスグよ!

 

命名。その後、野良犬狩りがされているらしく、母はしぶしぶスグちゃんを飼ってくれることにしてくれました。

 

ところが、枚方から一年後には引っ越すことになり、大阪の箕面の社宅が引っ越し先だったため、スグちゃんは連れていけず、結果、お隣の家にもらわれていきました。私はとても悲しくて、スグとのお別れは今でもトラウマなっています。

 

その後何年かして母がそのお家を訪ねたらしく、スグちゃんの話をしてくれたのですが、私たちが引っ越したあと、スグはすごく鳴いたそうです。あまりにうるさいので、結局は保健所に送られてしまったと。

それを聞いたのは何年生の時かわからないのですが、その保健所に入る時のスグ、吠えて吠えて寂しがっていたんだろうなと想像してすごく悲しかったです。それは今でも私の中に辛い思い出として残っています。

母が、生き物を飼うのは辛いよ。死んじゃったときにね。と言ってました。

 

ペットでいえば、その後小学生3年か4年のときに、セキセイインコを二羽飼いました。青と緑でした。ほどなく青色のインコは逃げてしまい、どんなに探しても戻ってきませんでした。

緑のインコはPちゃんという名前で、なぜか私の名前をよく言うインコでした。たぶん母が私をよくお手伝いに使ったのでよく呼んでいたためかと思います。

 

小学校5年生になったとき、新築の一戸建てに引っ越しました。今も通っている実家です。ここは土地を購入して、家は同じ会社の方で、社宅の真向かいに住んでいた建築の方に設計してもらい、施工は父の父が工務店をしていたので、そこの大工さんに来ていただいて作った家です。アパート暮らしから突然素晴らしい一戸建てに住んだので、とても嬉しかったです。

しかしながら転居してしばらくして、セキセイインコのPちゃんは死んでしまいました。私は友人二人を呼んで家の庭に埋めて、お墓をつくりお祈りしました。

 

そんなこんなで、なにかとペット好きでしたが、ここからまた父が私が高校生のときに単身赴任で東京にいってしまい、そこからの大阪の家は残したまま、東京、横浜と転居しました。横浜では一戸建てを借りて住んでいたとき、近くに住む道路公団の知人さんから生まれたしば犬ミックスの赤ちゃんをもらうことになり、それがスグちゃんと似ていたので私はやはり可愛がりました。名前はロンちゃんでした。

 

ロンちゃんは、うちの長男、次男とも仲良くしてくれましたが、確か父が亡くなった年かその前年に老衰でなくなりました。私は外地に駐在していたので、かえってはよちよちと頭撫でてかわいかわいしてましたが、ある日私のはなをかぶっと噛んだので、バカ!なにするの!と頭をぱかんと軽く叩きました。今思えばもう年寄りだったので鼻もきかなくなり、だれなのかわからなかったのかもしれませんね。

 

その後は、ヨルダンで家の玄関にかわいい白い猫がエレガントにしっぽを巻いて座っていたので、おーかわいいなと。猫のことはよくわからなかったのですが、ヨルダンはイスラムは犬がダメですが、猫はオッケーで、あちこちでみかけてました。

あまりに可愛いので、牛乳をあげていたら、次男がとても可愛がるようになりました。猫はあまりきれいではなかったので、家には入れないでね!といったら、猫と広い玄関の前でいっしょに仲良くなっていました。学校から帰るといつもお腹の上に乗せて、笑いながらかわいがってました。

その猫はなかなかの策士?で、じつは大量の子猫の母親で、ある日、その子供たちを連れてきたことがありました。そのときは次男はいなかったのですが、牛乳をあげようとしたら、その中に足の悪い障害猫がおり、その猫がものすごく人を憎んでいる感じで逃げ回ってしまい、かわいそうになったので、子猫は相手にしないことにしました。

次男は学校から戻ると猫との時間を楽しんでましたが、ある日学校に行っていないときに、メイドさんが、外に猫!猫!と言って私を呼んだのです。行ってみると、あの白猫ちゃんだろう猫ちゃんが家の前の道路で車に轢かれたみたいで、死んでました。これはまずい!と頭の中でいろんなことが交錯したのですが、まずは次男に見つからないようにどこかに埋めないと!と。しかしスコップなどがないので、家の前の空き地に板が捨ててあったので、その上に、触らないように乗せ、そしてその空き地の隅の方に、板で穴を掘って猫を埋めたのです。板でほったのであまり深く掘れなかったのがきになりましたが。。

 

次男は帰宅して、猫ちゃんがいない!と言って騒いだのですが

 

きっとどこかにいってしまったのかもしれないからしばらく待ちましょう

 

と言ったのですが、何日かして、もしかして死んだの?と言ってきたときもありましたが、ううん。死んでないよきっと!と言い続けてました。

 

次男にその後大きくなってから聞いたら、本人はうすうすわかっていたみたいです。

 

その経験もあり、わたしたちのヨルダン駐在後、2005年ですが、生き物の嫌いな夫をなんとか説得して、愛猫のダンくんを買ったのです。当時は10万円で買えました。いまは相当高いみたいですね。名前は夫さんが可愛がってくれるように、ウルトラセブンのダン隊員からとりました。

 

そのダンくんも、もうなくなって2年になりました。

 

 

数え歌からのペットさん思い出話しになりました。

 

枚方の大きな玄関のおうちは実は私の中でよく思い出されるのです。

そして今、夫さんの実家をリフォームしていますが、とくに玄関を手厚くお金をかけているわけですが、実はこの枚方でみた立派なおうちの玄関の光景が忘れられないのかもしれないです。

玄関だけは立派にしたい!と夫さんにお願いしているわけですが、さてはてどんな感じになるかなあ。

 

今日は雨で、夫さんのゴルフ練習も延期してもらい私はなぜか今日は眠り姫になってしまいました。咳がまだとれないんですが、これ一体なになのかなあ。